残業は少ない、有給休暇も取れる、人間関係も悪くない。
上司から理不尽に怒鳴られることもなく、給料も極端に低いわけではない。
いわゆる、「働きやすい会社」。
それなのに社員から、「この会社、この先大丈夫なのかな」「10年後も会社が残っているのだろうか」「ここにずっといていいのだろうか」という声が出ることがあります。
一見すると矛盾しています。
職場環境が悪いなら、会社に不安を感じるのは理解できます。
しかし働きやすい、待遇にも大きな不満はない。
それでも、会社の将来だけは不安という状態です。
なぜなのでしょうか。
おそらくここには「現在の快適さ」と「未来への安心」を、同じものとして扱ってしまうという問題があります。
働きやすさとは「今日、この会社で働くことが苦痛ではないか」という問題です。
会社の将来性とは「5年後、10年後もこの会社で働くことが合理的か」という問題です。
時間軸が違います。
今回はこの違いから考えてみます。
一般にはどう理解されているか
一般的に「良い会社」と言えば、残業が少ない、休日が多い、有休が取れる、福利厚生が充実している、人間関係が良い、ハラスメントが少ない、柔軟な働き方ができる。
このような特徴が挙げられます。
実際、働きやすさは社員の定着にとって重要です。
JILPTの調査でも、現在の会社で働き続ける理由として、
「残業が少ない、有休を取得しやすい等、働きやすい環境」
を挙げる正社員は66.7%に達しています。
したがって企業が、テレワーク、フレックスタイム、有給取得、残業削減、育児支援、ハラスメント対策。
これらを進めることには明確な意味があります。
しかし、働きやすくすれば社員は将来にも安心するとは限りません。
社員が見ているものは、職場環境だけではないからです。
例えば、売上が伸びていない、新商品が出ない、設備が古い、若手が採れない、ベテランばかりになっている、競合他社はAIや自動化を導入している、自社は昔と同じ仕事をしている、経営者が将来について何も語らない……
こうした状態なら職場が快適でも、
「今は楽だけれど、この会社は10年後どうなるのだろう」
と考えるのは不自然ではありません。
当事者A――会社から見るとなぜ合理的なのか
では会社側から考えてみます。
経営者が社員の定着率を改善したいとします。
社員アンケートを取る。
すると、「残業が多い」「有給が取れない」「勤務時間が不規則」「上司とのコミュニケーションが悪い」といった不満が出ます。
そこで会社は改善します。
残業を削減する、休日を増やす、有給取得を促進する、ハラスメント研修をする、柔軟な勤務制度を導入する。
会社としては非常に合理的で、しかも結果が見えやすい。
残業時間は数字で測れますし、有給取得率も数字になります。
離職率も測れます、社員満足度調査もできます。
つまり、
働きやすさは改善効果を確認しやすい。
ところが、「会社の将来性」は難しい。
新規事業へ投資したからといって成功するとは限りません。
研究開発費を増やしても成果が出るのは5年後かもしれません。
社員教育も同じです、設備投資も同じです。
そのため経営者から見ると今日の職場環境改善の方が、将来の競争力強化より成果を説明しやすい。
すると、働きやすさの改善は進む。
しかし、会社そのものが強くなっているかは別問題という状態が起こります。
当事者B――社員から見ると何が違うのか
社員は少し違う計算をします。
例えば40歳の社員なら、定年まで20年以上あります。
その社員にとって「今年働きやすいか」だけでは足りません。
考えるのは、この会社は10年後もあるのか、自分の仕事はAIに代替されないか、給料は上がるのか、設備投資はされるのか、若い社員は入ってくるのか、自分の技能は外でも通用するのか。
こういった問題です。
ここで重要なのは社員にとって会社とは、単なる「今日働く場所」ではないことです。
自分の人生の数年間、あるいは数十年間を投資する対象
でもあります。
すると社員は現在の待遇だけではなく、この会社に時間を投資した結果、自分が5年後どうなるかまで考えます。
したがって、残業ゼロ、休暇多数、人間関係良好。
こういった好条件がそろっていても……
新しい技能を覚えられない、会社の業績が伸びない、将来像が見えない。
なら、「働きやすいけれど、ここに居続けて大丈夫なのか」という不安が生まれます。
これは矛盾ではありません、むしろ合理的です。
全員が同じ行動をしたらどうなるか
ここから記事解剖室的に考えてみます。
企業全体が「社員定着のためには働きやすくすればいい」と考えたらどうなるでしょうか。
残業削減、休暇増加、柔軟な勤務、福利厚生、職場環境改善。
これ自体は悪いことではありません。
しかし、研究開発、設備投資、新規事業、人材育成、業務改革、AI導入、事業撤退。
こういった難しい経営判断を後回しにしたらどうでしょう。
すると会社は、非常に働きやすいが、成長しない会社になる可能性があります。
社員も最初は満足します。
しかし数年経つ。
競合企業の売上が伸び、自社は横ばい。
競合は新製品を出し、自社は既存商品だけ。
競合はAIを導入し、自社は昔の方法。
すると社員は、
「待遇はいい。でも会社として大丈夫なのか」
と考え始めるでしょう。
つまり、働きやすさを改善すれば改善するほど、最後に残る不満が「将来性」になる可能性があります。
これは少し面白い現象です。
悪い職場では、「残業を減らしてほしい」が最大の問題です。
それが解決すると次は、「給料を上げてほしい」になる。
それもある程度改善されると最後に、
「この会社はどこへ向かっているのか」
という問題が見えてきます。
⑤ 一次効果の次に何が起きるか
働きやすさを改善した一次効果は、社員満足度の向上、離職率低下、採用力向上です。
これは良いことでしょう。
しかし二次効果があります。
社員が辞めなくなる→社員の平均勤続年数が伸びる→会社への依存度が高くなる
すると社員は、
「この会社が傾いたら、自分はどうなるのか」
を強く意識するようになります。
さらに三次効果があります。
働きやすい、辞める理由がない、しかし将来は不安。
こういう状態になると、社員は非常に微妙な心理状態になります。
「辞めたいわけではない。でも、このまま残っていいのか分からない」
これは「不満」とは違うので、会社も発見しにくい。
社員アンケートで、
上司との関係:満足。
勤務時間:満足。
休日:満足。
福利厚生:満足。
このように回答していても、転職サイトを見ているかもしれません。
つまり、満足度が高い社員が、必ずしも会社の未来を信じているとは限らないということです。
その変化に人間はどう適応するか
人間は、この状態にも適応します。
最も合理的なのは「会社には残る。しかし会社だけには依存しない」という行動です。
例えば、資格を取る、副業する、社外の人脈を作る、転職サイトへ登録する、LinkedInなどで市場価値を確認する、AIを個人的に勉強する、投資をする、貯蓄を増やす。
つまり、働きやすい会社を辞める必要はない。
しかし、会社がなくなっても生きられる準備はしておくという行動になります。
これは会社への忠誠心が低いからとは限りません。
むしろ、会社の将来が読めない時代には合理的なリスク管理です。
そして、ここからさらに重要な変化が起こります。
社員が、「会社に自分のキャリアを任せない」ようになります。
会社が教育してくれるのを待たない、会社が昇進させてくれるのを待たない、会社が定年まで守ってくれるとも考えない。
すると、
会社と社員の関係が「長期共同体」から「一定期間の取引関係」へ変わっていく。
可能性があります。
反論・例外・この仮説が成立しない条件
もちろん、働きやすい会社ほど将来不安が強いという意味ではありません。
働きやすく、同時に成長している会社もあります。
例えば、新規事業が伸びている、設備投資をしている、研究開発を続けている、社員教育へ投資している、若い人材も採れている、経営陣が戦略を説明している、財務状態も健全。
こうした会社なら、働きやすさ+将来への期待を両立できるでしょう。
また、成長しなくても問題のない企業もあります。
安定したインフラ、地域独占性の高い事業、長期契約型事業、公共性の高い仕事などです。
必ずしも売上が毎年成長する必要はありません。
重要なのは、成長しているかどうかだけではなく、将来も現在の事業が成立する根拠を社員が理解できるかでしょう。
そして、会社側がどれだけ説明しても、
世界経済、AI、人口減少、地政学、産業構造変化など企業単独では制御できない不確実性もあります。
したがって、社員の将来不安を完全になくすことはできません。
5~10年続いた場合どうなるか
では「働きやすい。しかし将来が見えない」状態が5年、10年続いたらどうなるでしょう。
最初の数年は、離職率もそれほど高くならないでしょう。
働きやすいからです。
しかし社員の中では、少しずつ二つのグループが生まれる可能性があります。
一つは、「この会社に残ろう」という人。
もう一つは、「環境はいいので今すぐ辞めない。ただし次の準備はしておこう」という人。
すると、表面的には社員が定着している。
しかし内部では、会社への長期コミットメントが低下するという状態になります。
5年後に優秀な社員から、良い転職先が見つかった順に辞めていく……
特に、市場価値の高い社員、若手、専門職が動きやすい。
すると会社には、「辞めたい人が辞める」のではなく「辞められる人から辞める」という現象が起きる可能性があります。
これは会社にとってかなり危険です。
そして10年後、新しい技能を持つ人が減る、新規事業を作れる人が減る、会社の変革能力が落ちる。
すると、社員が感じていた「この会社、将来大丈夫なのか」という不安が、実際に会社の競争力を低下させる方向へ働く可能性があります。
つまり、将来への不安→優秀な社員が外部準備→機会があれば退職→変革できる人材減少→会社の将来性低下→さらに社員が不安
こういう循環です。
不安が、ある意味で自己実現してしまいます。
既存の記事解剖室の考察とどうつながるか
このテーマは、これまでの記事解剖室で考えてきた複数の問題をつなぐ位置にあります。
まず「会社と長期関係を築くことは、社員側にとって合理的なのか」というテーマです。
会社が安定していた時代なら、
長く勤める、社内技能を覚える、昇進する、退職金を受け取る。
こういう長期関係には合理性がありました。
しかし会社の将来そのものが読めなくなると、
働きやすい会社でも、「一社にキャリアを集中投資するリスク」を社員は考え始めます。

次に「会社はなぜ辞めてほしくない社員より、新しく採る社員に高い給料を払えるのか?」ともつながります。
社員が、「会社が自分を長期的に守ってくれるとは限らない」と考えれば、会社内部での評価だけではなく、外部市場での自分の価値を気にするようになります。
すると、社内昇給、社内評価、社内資格よりも市場価値、転職可能性、汎用技能を重視します。

さらに「AI時代、会社は誰が人材を育てるのか?」ともつながります。
社員が、「この会社に10年いるとは限らない」と考え企業側も、「育てても辞めるかもしれない」と考える。
すると双方とも、長期的な人材投資を躊躇します。

そして今回の「人手不足の会社ほど、なぜ教育する余裕がなくなるのか?」にもつながります。
将来が不安→若手や優秀層が辞める→人手不足→教育余力低下→次世代が育たない→さらに会社の将来が不安になる。
上記の循環が成立します。
さらに「仕事ができる人を昇進させるのは、本当に正しいのか?」とも関係します。
会社の将来が見えないほど、優秀な社員は「この会社の中でどこまで昇進できるか」より、「この会社の外でも使える能力があるか」を重視するようになるでしょう。
つまり、これまでの記事解剖室で扱ってきた給与、昇進、教育、AI、人手不足、転職というテーマの根底には「会社と社員は、どこまで未来を共有できるのか」という共通問題があることになります。
記事解剖室の結論
「働きやすい会社なのに、なぜ社員は会社の将来を不安に思うのか?」
おそらく答えは働きやすさは現在の問題であり、将来性は未来の問題だからです。
残業が少ない、休みが取れる、人間関係が良い、福利厚生が充実している。
これは、「今日、この会社で働きたい理由」になります。
しかし、
会社に成長戦略がある、事業に競争力がある、新しい技術へ対応している、社員が成長できる、財務が安定している、経営者が将来像を示している。
これらは、「5年後も、この会社で働きたい理由」になります。
この二つは似ているようで違います。
企業が働き方改革を進めれば「辞めたい理由」は減らせます。
しかし、「残りたい理由」まで自動的に増えるわけではありません。
ここが重要なのではないでしょうか。
残業が多い、上司が怖い、休めない、給料が低い。
こうした問題を解消することは重要です。
しかし、それはマイナスをゼロへ戻す仕事です。
社員が、「この会社で5年後も働いていたい」と思うには、ゼロからプラスへ進む理由が必要です。
その理由とは、会社の成長かもしれない、自分の成長かもしれない、社会的意義かもしれない、高い報酬かもしれない、技術力かもしれない、安定性かもしれない。
理由は、企業ごとに違います。
しかし何かしら「この会社と一緒に未来へ行く理由」が必要になります。
そして逆説的ですが、非常に働きやすい会社ほど、この問題は見えにくくなります。
社員が辞めないからです。
離職率も低く、社員満足度も高い。
一見すると問題がないように見える。
しかし社員の頭の中では「今すぐ辞めるほど嫌ではない。でも10年後まで残る自信もない」という状態が静かに広がっている可能性があります。
この状態を「社員が満足しているから大丈夫」と判断すると危険です。
企業が見るべきなのは「社員は今の会社に満足しているか」だけではありません。
もう一つ「社員は、この会社の未来に自分の未来を重ねられるか」を聞く必要があります。
働きやすさとは、会社に社員を留める力です。
しかし将来への信頼とは、社員が自分から会社と一緒に進もうと思う力です。
そしてこれからの会社にとって、本当に不足する可能性があるのは「辞めない社員」ではなく「この会社には未来がある」と思って働く社員なのかもしれません。


コメント