今回考察するのは、以前考察した「AI時代、会社は誰が人材を育てるのか?」で取り上げた話題、ズバリ、経験者だけを欲しがる企業が増えるほど、経験者を生産する仕組みが壊れるという問題。
これが具体化しつつある、という記事をみつけました。
その業界はサイバーセキュリティ業界で、WSJ記事と、その根拠になっているIANS Research/Artico Searchの最新調査、これまでの記事解剖室の記事を照合してまとめます。
1.記事は何を主張しているか
Wall Street Journalの記事「As AI Filters Into Cybersecurity, Companies Seek Out Seasoned Workers」が描いているのは、一見すると少し奇妙な雇用市場です。
AIがサイバーセキュリティ分野に入ってきている。
普通に考えるなら、
AI導入→人間の仕事を自動化→セキュリティ人員削減
こうなりそうですが、実際には必ずしもそうなっていません。
IANS ResearchとArtico Searchが500人以上のCISO(最高情報セキュリティ責任者)を対象に行った2026年調査では、69%が「AIによって既存のセキュリティ人員を減らすとは考えていない」と回答しています。
さらに81%は、「AIによって新しい職種・技能への需要が生まれる」と予測しています。
つまり、
AIはサイバーセキュリティの仕事そのものを消しているというより、必要とされる人間の種類を変えている。
というのが記事の中心的な主張です。
ただし、その変化には大きな偏りがあります。
AIによって自動化されやすいのは、
- 警告の一次分類
- 大量データの確認
- 定型的な監視
- 情報整理
- 初期調査
こういった比較的ジュニア層が担当してきた業務です。
一方、企業が欲しがるようになっているのは、
- AIが出した結果を判断できる
- 異常の意味を理解できる
- 不完全な情報から判断できる
- 高度な攻撃者に対応できる
- AIそのものを監督できる
中堅・ベテラン人材です。
WSJはこれを、AIによってセキュリティ雇用が消えるのではなく、経験者へ需要が集中する構造として描いています。
ここまでは企業にとって合理的です。
しかし、記事の本当に重要な部分はその先です。
新人が担当していた仕事をAIが行う。
↓
新人を採用する必要が減る。
↓
企業は経験者を採用する。
↓
では、その経験者はどこから生まれるのか?
ここに、将来の「talent chasm(人材の断絶)」が発生するのではないか。
これがこの記事の本質的な問いです。
筆者は誰に向けて書いているか
表面的な読者は、
- CISO
- IT部門責任者
- サイバーセキュリティ企業
- 人事責任者
- 経営者
でしょう。
しかし、もう少し広く読むと、
「AIを導入して、人間の組織をどう作り替えるべきか」
を考えている企業全般に向けた記事でもあります。
WSJ Pro Cybersecurityの記事なので、直接的にはサイバーセキュリティ業界の記事です。
しかし問題の構造は、
会計
法務
プログラミング
コンサルティング
マーケティング
金融
人事
翻訳
などにもそのまま当てはまります。
なぜなら、多くの専門職がこれまで、
簡単な仕事
↓
少し難しい仕事
↓
判断業務
↓
専門家
という順番で人を育ててきたからです。
AIが最初の「簡単な仕事」を大量に引き受けると、このキャリア階段そのものが壊れる可能性があります。
したがってこの記事は、「AIで何人減らせるか?」ではなく、
「AI導入後、人間をどうやって専門家にするのか?」
を考え始めるべきだ、という経営者への警告とも読めます。
読者に何をさせたいか
この記事は、「新人をもっと採用しろ」と単純に主張しているわけではありません。
むしろ、AI導入を単純な省人化として考えるのをやめろ、という方向へ読者を誘導しています。
IANSの調査では、91%のCISOが「今後12か月でAIによってセキュリティチームの生産性が上がる」と考えています。
ところが同時に、69%は人員削減を予想していません。
つまり企業が考えているのは、
人間 → AI こういう単純置換ではなく、人間+AI → より高度なセキュリティ業務、です。
そしてIANS側も、AIが増えた結果、CISOが社員に期待する仕事として、
異常を発見すること、重要な脅威を見極めること、不完全・曖昧な情報から判断すること、などを挙げています。
つまり、AIにできる仕事を人間がやる必要はない。
しかし、AIができない仕事をできる人間は以前より重要になる、ということです。
この記事を読んだ経営者に求められるのは、「新人を採る/採らない」という二択ではなく、新人をどのようにして、AI時代に必要な経験者へ変換するか、という新しい人材育成モデルを考えることでしょう。
どんな前提を置いているか
この記事にはいくつか重要な前提があります。
前提① AIは「完全な専門家」にはならない
この記事は、AIが進歩しても、
判断、責任、文脈理解、例外処理などを行う人間が必要だという前提に立っています。
少なくとも2026年時点では、この前提はIANS調査とも一致しています。
91%がAIによる生産性向上を予想する一方、69%は人員削減を予想していないからです。
つまり、AI → 人間不要ではなく、AI → 人間の仕事が高難度化、という想定です。
前提② ベテランは新人から育つ
これも当然のようですが、非常に重要です。
現在40歳のセキュリティ専門家は、
40歳になった瞬間に突然専門家として市場へ出現したわけではありません。
20代のころログを確認し、アラートを処理し、失敗し、上司に修正され、事故対応を経験し、少しずつ専門家になっています。
つまり、現在AIが代替しようとしている仕事そのものが、過去には専門家を製造する訓練装置だった。
可能性があります。
前提③ 企業は個社合理性で動く
一企業からすれば新人を5年育てるより、経験者を市場から一人採用する方が合理的です。
ここまでは何もおかしくありません。
問題は、
A社「経験者を採ろう」
B社「うちも経験者を採ろう」
C社「新人はAIでいい。経験者を採ろう」
D社「うちも」
こうなった場合です。
では、2036年の経験者を作るのは誰なのでしょうか?
ここで個社合理性と業界合理性が衝突します。
何が書かれていないか
この記事で最も掘り下げる余地があるのは、ここでしょう。
① 「経験者」という資源は誰が生産するのか
記事は将来のtalent chasmを懸念しています。
しかし、さらに踏み込むなら【経験者とは、一種の共有資源なのではないか?】と考えられます。
企業は労働市場から経験者を採用します。
しかし、その経験者はどこかの会社が給与を払い、教育し、失敗させ、先輩社員の時間を使い、数年間育てた結果として存在しています。
つまり経験者採用とはある意味、他社が行った人材育成投資の成果を市場から購入している行為でもあります。
全企業がこれをやり始めれば、当然成立しません。
② AIが新人仕事を消すこと自体が「人材育成コスト」を上げる可能性
これまでは新人に仕事をさせることと、教育することが同時にできました。
新人:簡単な仕事をする+その過程で学習する。
ところがAI時代には、
AI:簡単な仕事をする。
新人:教育だけ必要。
上記のようになる可能性があります。
つまり新人が、「生産しながら学ぶ人」から、「生産性が低い状態で意図的に教育しなければならない人」へ変わります。
これは企業から見ると、育成コストの増大です。
だからこそ企業はさらに経験者を欲しがる。
すると、新人採用減少→経験者不足→経験者賃金上昇→経験者争奪→新人育成企業から引き抜く→育成する企業ほど損をする
このような循環まで考えられます。
③ 「ベテラン不足」になったとき誰が一番得をするのか
ここも面白いところです。
AIによって新人が減った結果、10年後に経験者不足になれば現在の中堅人材の市場価値は大きく上昇する可能性があります。
つまりAIは若手の仕事を奪う一方、すでに経験を持っている人の希少価値を高める可能性があります。
これは単純なAI vs 人間ではありません。
より正確には、AI+経験者vs新人 このような形の競争になる可能性があります。
記事の有効な部分は何か
この記事で非常に有効なのは、
「AIによる雇用減少」を人数だけで見てはいけない
ことを示している点です。
サイバーセキュリティでは、総人数は大きく減らない。
しかし新人は減る、中堅以上は増える、ということが起こり得ます。
これは記事解剖室で以前考察した、「人手不足なのに、なぜAIで人員削減するのか?」とも一致します。

その記事では日本全体が人手不足でも、すべての職種が不足しているわけではない、と考察しました。
例えば、
事務職は余る、技術職は足りない。
なら「人手不足」と「AI人員削減」は同時に成立します。
今回の記事では、さらに細かい現象が起きています。
同じサイバーセキュリティという職種の中ですら、
新人:余る。
経験者:不足する。
こんな形の分断が起こる可能性があるのです。
つまり今後の労働市場は、職種単位ですら粗すぎる。
職種×経験年数×AI代替可能業務
このくらいまで分解しないと実態が見えなくなるのかもしれません。
別の立場から見るとどうなるか
企業側
企業からすれば、経験者採用は極めて合理的です。
サイバー攻撃は高度化し、攻撃側もAIを使う。
その状況で、「新人教育のために簡単な仕事を残しておこう」とは言いにくいでしょう。
企業の目的は教育ではなく、自社を守ることだからです。
したがって企業が、AI+経験者を選択するのは合理的です。
新人側
一方、新人から見ると非常に厳しい。
これまでは、
能力が低い→簡単な仕事をする→経験を積む→能力が上がる
こういう形の入口がありました。
それがAI時代には、
能力が低い→その仕事はAIがやる→しかし経験者求人には応募できない
こういう形になってしまう可能性が高い、と私は見ています。
つまり、経験を積むためには経験が必要という矛盾が強くなる可能性があります。
ベテラン側
逆にベテランには追い風です。
AIを使える経験者なら、AIなしで働いていた時代よりも多くの仕事を処理できます。
これは記事解剖室の、「AIで一人が10人分働けるようになったら、その社員に10倍の給料を払うのか?」という問題にもつながります。

一人の優秀な専門家+AIが、以前の数人分を処理できるようになれば企業は、新人5人より、高給の経験者1人+AIを選ぶ可能性があります。
つまりAIは、労働市場の「少数精鋭化」を進める可能性があります。
社会全体
しかし社会全体では、これが最も危険です。
記事解剖室の「AI時代、会社は誰が人材を育てるのか?」では、
「新人を採らなくても、市場から経験者を買えばいい」という戦略は、すべての企業が採用することはできない。
と考察しました。

今回のWSJ記事は、まさにこの問題の実例です。
企業が経験者を求めれば求めるほど、経験者の価値は上がります。
しかし、経験者を作る新人採用が減れば将来の経験者そのものが減ります……かなり皮肉な構造です。
記事解剖室の結論
今回の記事について、記事解剖室として最も重要なのは、
「AIがサイバーセキュリティの仕事を奪うか?」ではないと思います。
より重要なのは、「AIが新人の仕事を奪った結果、将来のベテランまで消してしまわないか?」でしょう。
企業からすれば、簡単な仕事をAI化する、新人を減らす、優秀な経験者を採用する。
これは極めて合理的です。
しかし、それを10年間続けたらどうなるでしょうか。
2026年、新人を採らない。
2027年、新人を採らない。
2028年、経験者を採用する。
2030年、経験者を採用する。
2035年、経験者を採用したい。
しかし、その経験者になるはずだった2026年の新人を採用していなかった……このような事態に陥りかねません。
さすがにそんなことは起こらないよ、と思いますか?
でも似たような事態を日本はすでに味わっていまして、氷河期世代と言われる世代の雇用を極端に抑えたことで、この世代の経験者、中間管理職層が薄いという事態に直面しています。
歴史は繰り返す、という言葉もあるので、きちんと氷河期世代の時に経営層が産み出してしまった苦い教訓を活かすことが出来なければ、以前の記事「AI時代、会社は誰が人材を育てるのか?」で考察した、
AIで新人仕事を代替する
↓
新人採用を減らす
↓
経験者が減る
↓
AIを監督できる経験者が必要になる
↓
その経験者を10年前に育てていない
という循環が、始まりかねません。
現に、サイバーセキュリティというAIとの親和性が高い業界で、かなり具体的な形を取り始めたと見ることができます。
そして、この問題はサイバーセキュリティだけでは終わらないでしょう。
会計士も、弁護士も、プログラマーも、コンサルタントも、研究者も、管理職も、かつては簡単な仕事を大量に経験することで高度人材になってきました。
AIがその「下積み」を代替するのであれば、企業は新しい育成方法を作らなければなりません。
AI時代の新人教育は、「簡単な仕事を何年もやらせる」から、AIが処理した仕事を教材として使い、判断・例外処理・失敗分析を意図的に経験させる方向へ変わるのかもしれません。
これは以前の記事「AIは“大企業で働く意味”そのものを小さくするのか?」ともつながります。

そこで考察したように、大企業に残る重要な価値の一つが、
人材育成の場
です。大企業には専門家、研修制度、大規模案件、失敗から学べる余裕があります。
もしAI時代に自然なOJTが成立しなくなるなら、
逆説的ですが人材を意図的に育成できる会社の価値は、むしろ高くなる可能性があります。
そして企業間でも「経験者を高い給料で奪い合う会社」と、「新人をAIと組み合わせながら経験者へ育てられる会社」では、10年後に大きな差が出るでしょう。
AI導入で本当に重要なのは今年何人減らせたか、今年何%生産性が上がったかだけではありません。
2036年に必要な人材を、2026年から誰が育てているのか。
そこまで考えなければAIによる効率化は、現在の人件費を削減する代わりに、未来の人材供給能力を削っているだけ、ということにもなりかねません。
今回のWSJの記事は、「AIは人間を不要にするのか」という議論から、「AI時代には経験者をどう生産するのか」という次の段階へ、議論が移り始めたことを示す記事として読むと、非常に興味深いのではないでしょうか。


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