コロナ禍によって一気に広がったリモートワークですが、最近では企業側が社員をオフィスへ戻す「出社回帰」が進んでいます。
日本でもその傾向は見えています。
NIRA総合研究開発機構の調査では、2024年12月時点のテレワーク利用率は全国で13%、東京圏でも21%まで低下していました。
企業から「テレワークを推奨されていない」と答えた人も58%に達しています。
一方、パーソル総合研究所の2025年調査では、テレワークをしている人の82.2%が継続を希望しています。
企業側が出社へ戻そうとしているのに対し、テレワーク経験者の多くは柔軟な働き方を残したいと考えているわけです。
つまり、会社は出社させたい、でも社員は柔軟性を残したいという利害のズレが生まれています。
では企業が完全出社、あるいは出社日数の増加を命じ、その結果として社員が辞めた場合、それは単純に「リモートワークが好きな社員が辞めただけ」なのでしょうか?
私は、事はそう単純ではないと思います。
出社回帰による最大の問題は、会社側が「出社によって得られる利益」は計算していても、「そのために失うもの」を十分計算していない可能性があると見ています。
社員はなぜ出社回帰だけで辞めるのか
会社員なのだから、会社から「週5日出社してください」と言われたくらいで辞めるのは大げさではないか。
そう考える人もいるかもしれません。
実際、コロナ禍以前は週5日出社が普通でしたからね。
ところが一度リモートワークを経験した人にとって、出社回帰は単なる「勤務場所の変更」ではありません。
片道1時間通勤している社員なら、週5日出社によって一週間に10時間を通勤へ使います。
年間約240営業日と仮定すると、年間約480時間、8時間労働に換算すれば、約60日分です。
もちろんこれは会社の労働時間ではありません。
しかし社員自身から見れば、
リモート勤務→出社勤務、という制度変更によって、自分が自由に使えた年間数百時間を失うことになります。
さらに、交通費、身支度、昼食費、保育・介護との調整、睡眠時間、家事時間なども変わります。
つまり社員側から見ると出社回帰とは、「会社へ行く場所が変わった」のではなく、「会社へ提供する生活時間が増えた」とも解釈できます。
ここを企業側と社員側ではかなり違って見ているのではないでしょうか。
リモート勤務は「見えない給与」になっている
さらに重要なのは、一度与えられた柔軟な働き方には経済的価値が生まれることです。
リクルートワークス研究所も、柔軟な勤務制度について、労働者にとって金銭的価値を持つ労働条件として分析しています。
柔軟な働き方は賃上げをしなくても従業員満足度を高め、家庭事情などによる離職を防ぐ可能性があります。
これはかなり重要です。
例えば、年収500万円+週2日リモートという労働条件だった人を、年収500万円+週5日出社へ変えたとしましょう。
会社側から見れば、「給与は下げていない」となります。
しかし社員側からすると違います。
リモート勤務という福利厚生に近い価値を失っています。
つまり実質的には、金銭給与は同じでも総合的な待遇が下がったと感じる可能性があります。
そこで転職市場を見ると、年収500万円+週3日リモート
という会社が存在する。
それなら社員側の人材が転職を考えるのは、それほど不可解な行動ではありません。
問題は「全員」が辞めるわけではないこと
しかし会社としてもっと厄介なのはこちらでしょう。
出社回帰しても全員が辞めるわけではありません。
100人いる会社で、10人だけ辞めた。
会社は「90人残ったのだから問題ない」と考えるかもしれません。
しかし、その10人が誰なのかを見る必要があります。
転職しやすい社員は、基本的に転職市場で需要が高い社員です。
専門能力が高い社員、市場価値の高い社員、若い社員、他社から声を掛けられる社員。
こうした人ほど、「嫌なら別の会社へ行く」という選択肢を持っています。
逆に転職が難しい社員ほど会社へ残る可能性があります。
すると、出社回帰→社員が退職する→人数は少し減っただけ→しかし市場価値の高い社員が抜ける
ということが起こり得ます。
以前、記事解剖室では「社員が辞めない会社は、本当に良い会社なのか?」という問題を考えました。

社員が残っている理由が、会社が魅力的だから、とは限りません。
転職できないから残っている場合もあります。
今回の問題はその裏側です。
出社回帰後に離職率だけを見て、「90%残ったから成功」と評価してしまうと、誰が残り、誰が辞めたのかを見落とす可能性があります。
実際、柔軟勤務は離職率を下げるのか
ここについては非常に興味深い研究があります。
中国の旅行会社Trip.comの従業員1,612人を対象として行われ、2024年にNatureへ掲載された実験です。
社員を週5日出社するグループと、週3日出社・週2日在宅勤務するハイブリッドグループへ分けました。
その結果、ハイブリッド勤務グループでは離職率が約33%低下しました。
しかも業績評価や昇進率には有意な悪化が確認されませんでした。
特に離職抑制効果が大きかったのは、女性、非管理職、通勤時間の長い社員でした。
もちろん一企業の実験なので、「すべての会社がハイブリッド勤務にすべきだ」とまでは言えません。
工場のように、現場に出てこなければどうやっても仕事が出来ない、というケースもありますしね。
しかし現場に出てこなければどうやっても仕事が出来ない、工場のようなケースを除けば、少なくとも、出社日数を増やせば生産性が上がり、会社が得をするという単純な話ではないことを示しています。
生産性が変わらないのであれば、離職率が低い方が会社には有利です。
企業が見落とすコスト① 採用費
社員が辞めれば、新しい社員を採用しなければなりません。
求人広告を出す、人材紹介会社へ依頼する、書類選考をする、面接する、採用担当者が対応する、場合によっては紹介料も発生するでしょう。
会社は、「社員一人が辞めた」と考えがちですが実際には、
退職→求人作成→応募者募集→選考→採用→入社
という大量の業務が新たに発生します。
しかも採用できる保証はありません。
人手不足が進む日本で、このコストは以前より重くなっているでしょう。
企業が見落とすコスト② 教育費
採用できたら終わり、ではありません。
当然と言えば当然なんですが、新入社員は、その日から退職者と同じ仕事ができる訳ではないからです。
会社独自のシステム、社内ルール、顧客、製品、人間関係、暗黙の業務手順。
それらを覚える必要があります。
すると教育担当者の時間も奪われます。
新人一人を教育するため、ベテラン社員の生産性が一時的に落ちる。
つまり会社は、退職者一人だけを失ったのではなく、退職者+教育担当者の生産性まで一時的に失っていることになります。
企業が見落とすコスト③ 仕事は残った社員へ移る
そして新たな人材を採用するまで、退職された社員がこなしていた仕事は蓄積し続けます。
このたまっていく仕事を、誰がやるのでしょうか。
残った社員です。
ここで以前の記事解剖室で考えた、「完全出社で静かな退職が起きる理由」とつながります。
その記事では、
会社には社員の「行動」を一定程度強制する力はあっても、社員の「意欲」まで強制することはできない
と考えました。

出社回帰によって社員Aが辞めた。
するとAの仕事を社員B・C・Dへ振り分けます。
B・C・Dの仕事量が増えるが、給料はほとんど変わらない……すると、B・C・Dは考えるでしょう。
「なぜ会社の制度変更で辞めた人の仕事まで自分がやるのか?」と。
ここから、残業増加、不満増加、エンゲージメント低下、静かな退職、さらなる離職が始まる可能性があります。
つまり離職コストには、一次離職だけでなく二次離職まで存在します。
企業が見落とすコスト④ 管理職が壊れる
先述した社員の、B、C、Dも離職、あるいは離職までいかずとも、他の仕事に手を出さない、あるいは出せないとなった場合、離職者Aの仕事の穴を最後に埋めるのは誰でしょうか。
多くの場合、管理職です。
担当者が辞める、採用できない、仕事は止められない。
残った社員へ振る、それでも回らない。
最後に管理職自身が実務へ入る。
すると、本来の管理業務+退職者の実務を抱えることになります。
以前の記事解剖室で扱った「完全出社で静かな退職」のケースでも、社員の離職によって管理職へ仕事が集中する問題を取り上げました。
そしてこれは、「誰も管理職になりたがらない会社」という別の記事ともつながります。

一般社員から見れば、「社員が辞めたら課長が全部背負う」という姿を見せられるわけです。
そんな役職を見て、「自分も将来管理職になりたい」と思う社員が増えるでしょうか?
つまり、出社回帰→社員退職→管理職負担増→管理職の魅力低下→管理職候補減少
という長期コストまで発生する可能性があります。
企業が見落とすコスト⑤ 組織の知識が消える
人間は単なる「労働力1人分」ではありません。
例えば10年間働いた社員なら、
なぜこの作業手順になっているのか、この顧客は何を嫌うのか、この設備はどんな時に故障するのか、誰へ相談すれば問題が早く解決するのか、過去に何を試して失敗したのか。
こうした知識を持っています。
マニュアルには書かれていないケースもあるでしょう
社員が辞めると、それも一緒に会社から出ていきます。
新しい社員を一人採用したから人数としては、-1+1=0です。
しかし組織能力としては、必ずしもゼロには戻りません。
10年間蓄積した知識と、入社1日目の社員は交換可能ではないからです。
企業が見落とすコスト⑥ 「会社は信用できない」という学習
個人的には、ここがかなり大きいと思います。
リモートワークを認める。
社員はそれを前提に、住む場所、家事、育児、介護、通勤、生活習慣を組み立てます。
数年後、「やっぱり全員出社してください」と言われる。
会社には制度変更する権利があります。ありますが、社員は別のことを学習するでしょう。
「会社が与えた制度は、いつ撤回されるか分からない」ということです。
すると次に会社が、新しい福利厚生、柔軟な勤務制度、副業制度、キャリア制度
これらを導入しても、社員は額面通り信用しなくなる可能性があります。
これは会計にはほとんど出てきません。
しかし組織運営では非常に大きなコストです。
信用を失ってしまう、というのは単純なコストでは計算できないものがありますからね。
さらに「働いているフリ」が増える可能性もある
出社回帰には、「社員の仕事ぶりが見える」という管理側の安心感があります。
これは理解できます。
実際、BambooHRの2024年調査では、RTOを実施した管理職の32%が、社員の仕事を把握・追跡することを主要目的の一つとして挙げています。
しかし興味深いことに、同じ調査では、オフィス勤務者の79%が何らかの形で「自分が働いていることを示す行動」をしていると回答しています。
37%が同僚に見えるようオフィス内を歩き、33%が上司より早く来たり遅く帰ったりすると答えています。
これは記事解剖室で考えてきた、「人事評価は社員の行動を測るだけでなく、その行動を作ってしまう」という問題そのものです。

会社が、「目の前にいる社員=働いている社員」と評価するなら、社員は当然のように働くことより、働いているように見せることへ適応する可能性があります。
出社させた結果、オフィスには人がいる。
しかし生産性が上がったかは分からない、という状況さえ起こり得ます。
そんなの机上の空論に過ぎない、と思う方はMeta社がすでに実施した取り組みについて取り上げたこちらの記事が参考になるでしょう。
どういうMetaが行った取り組みは、「AIを積極的に使う社員を高く評価する」ですね。
これに適応した一部の社員が、「AIをたくさん使った人間ほど評価されるなら、とにかくAIをたくさん使おう」と合理的に適応したことを取り上げた記事です。

では、出社回帰はすべて間違いなのか?
ここまで書くと、「この記事は出社反対の記事なのか」と思われそうですが、そうではありません。
出社には明らかなメリットも存在するからです。
新人教育、偶発的な会話、機密情報を扱う仕事、対面での顧客対応、チーム形成、複雑な共同作業、工場のように設備を必要とする仕事。
こうした業務では、対面勤務が有効な場合があります。
BambooHRの調査でも、出社経験者の58%が、出社によって職業上のネットワークが強くなったと回答しています。
したがって、リモート=善、出社=悪、という話ではないんです。
問題は、「出社にはメリットがある」ことと、「全員を週5日出社させることが最適である」ことは別だという話です。
会社が本当に計算すべきもの
企業が出社回帰を行うなら、本来比較すべきなのは、出社した社員の生産性だけではないでしょう。
例えば、出社によって得られる利益
・コミュニケーション改善
・教育効率改善
・意思決定速度
・顧客対応
・創造性
・生産性
と、出社によって発生するコスト
・離職率
・採用費
・教育費
・残業増加
・管理職負担
・欠員期間
・組織知流出
・従業員満足度低下
・採用競争力低下
・静かな退職
・二次離職
これらを同時に測らなければなりません。
ところがBambooHRの調査では、RTOを実施する企業のHR担当者の22%が、RTO成功を測定する指標そのものを持っていないと回答しています。
これ、正直言うと私には信じ難い(-_-;)
なぜ出社させるのか、何が改善すれば成功なのか、何が悪化したら撤回するのか。
それを決めず、「とにかく会社へ戻そう」となっている企業が存在する可能性があるってことですから……私からすると、ウソだろう、と思ってしまうんですよね(-_-;)
これは出社回帰だけの問題ではない
そしてここまで考えると、記事解剖室で扱ってきた様々なテーマが同じところへ集まってきます。
例えばAIリストラ。
社員を減らせば、人件費は減ります。
これは分かりやすい。
しかし、残った社員の負担、離職、教育能力低下、組織知流出まで考えると、本当に会社が強くなったのかは分かりません。
記事解剖室では以前、AIリストラによって社員を減らした結果、
社員削減→仕事再配分→残存社員負担増→離職→さらに負担増という悪循環が発生する可能性を考えました。
出社回帰も同じ構造を持っています。
経営側から見えやすい数字は、「オフィスに何人いるか」です。
見えにくい数字は、「その制度によって誰が辞めたのか」「残った人間の負担がどれだけ増えたのか」「失われた知識はいくらなのか」「将来辞める人をどれだけ増やしたのか」です。
すると最適解は「全員同じ」ではないのかもしれない
ここから導かれるのは、週5日出社か、完全リモートかという二択ではないでしょう。
例えば、
新人→出社多め 経験を積んだ社員→ハイブリッド 集中作業が多い職種→リモート多め 顧客対応・設備使用職→出社中心 重要な会議→対面 個人作業→場所自由
というように、仕事の性質によって勤務場所を変える方が合理的なのでは、と個人的には考えていますが、貴方はどう考えます?
もちろん、この制度は管理する側にとって面倒です。
全員毎日出社なら非常に簡単です、何故なら誰が会社にいるか一目で分かる。
しかし、管理しやすい制度=会社全体にとって最も生産性の高い制度とは限りません。
ここにも、記事解剖室で何度も出てきた問題があります。
測りやすいもの、管理しやすいもの、数字にしやすいもの。
それらを最適化すると、本当に重要なものを失うことがあります。
記事解剖室としての結論
出社回帰で退職者が増えるのはなぜなのでしょうか。
単純に、「社員が楽をしたいから」では説明できないと思います。
一度リモートワークを経験した社員にとって、働く場所の自由は労働条件の一部になりました。
それを失うことは、
通勤時間
生活時間
家族との時間
自由度
を失うことでもあります。
つまり社員側では、出社回帰=実質的な待遇変更と認識される可能性があります。
そして会社側が本当に見落としているのは、その社員が辞めることそのものではないのかもしれません。
一人辞めれば、採用が必要になる、新入社員への教育が必要になる、仕事が残った社員へ移る、管理職の負担が増える、組織知が失われる、残った社員の不満が増える、さらに別の社員が辞める。
そして、「この会社の制度はいつ変わるか分からない」という学習まで組織へ残ります。
つまり出社回帰の本当のコストは、退職者一人分の人件費ではありません。
むしろ、その人が抜けたことによって組織全体へ発生する連鎖コストです。
以前の記事解剖室では、「会社へ出社させることはできても、社員を働かせることはできない」と考えました。
今回もう一段進めるなら、会社は社員を出社させることはできる。
しかし、その社員が会社に残り続けることまでは命令できない。
ということになります。
だから経営側が問うべきなのは、「出社させるべきか、リモートにするべきか」だけではありません。
もっと経営的な問いは、「出社によって得るものは、出社によって失うものより本当に大きいのか?」ではないでしょうか。
そしてその計算に、生産性だけではなく、離職、採用、教育、残業、管理職、組織知、採用競争力まで入れたとき、初めて「出社回帰は成功したのか」を判断できるのだと思います。


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